「ミュンヘンへの夜行列車」とキャロル・リード |
コメディとサスペンスが溶け合う快作
「ミュンヘンへの夜行列車」はキャロル・リードが1940年に撮った映画である。
映画の時代設定は1939年、第二次大戦前夜だ。冒頭で、報道フィルムを用いて、ナチス・ドイツのポーランド、チェコ・ズデーデン地方への侵攻の様子が映し出される。まさに緊迫した時局の中で作られた映画だ。
しかし、映画の中では「政治」はほとんど顔を出さない。
ナチス・ドイツの手からチェコ人の科学者とその娘を救出する英国の諜報員の活躍を、軽妙にユーモアを絡めて描いた上質なサスペンス映画である。
当時日本は米英を相手に戦争をしていたので、この映画はわが国では上映されなかった。
日本でお目見えしたのは、有料テレビを通じてである。だから比較的最近のことだ。
今日では、DVDでこれを楽しむことができる。
舞台はチェコから英国へ
物語は、チェコスロバキアで始まる。
ナチス・ドイツがチェコに侵攻を始めたときに、装甲版を開発中のチェコの科学者ボマーシュは、娘アンナ(マーガレット・ロックウッド)とともには英国に亡命する。英国で研究を完成させようとしたのだが、ナチスはその研究の横取りをたくらむ。ヒトラーの指令に基づき、ナチス・ドイツの秘密工作員カール・マーセン(ポール・ヘンリード)は、科学者と娘をドイツに連行すべく、英国に渡り彼らを拉致する。一方、英国政府はこれを阻止するため、ナチの高級将校を装ったエージェントのガス・ベネット(レックス・ハリスン)送り込む。ガスは、まんまと敵を欺いて二人を救出しともにミュンヘン行きの夜行列車に乗車する。
ところが、これを怪しんだカールは列車に同乗しガスの策略を見破り、途中駅でナチ本部に注進する。かくしてゲシュタポはミュンヘン駅で手ぐすね引いて待つのだが、列車の最後尾の車両の中で両手を横木に括りつけられていたのは実はカールであった。ガス・ベネットの危機をたまたま知った英国人の二人の乗客が彼とアンナに加勢をしてくれたのだ。この二人、狂言回しかと思いきや、時の氏神―いや助けの神として主人公の二人を危機から救い出す重要な役割を担っている。
ガスたちはゲシュタポをだまして手に入れた車に乗り込みスイス国境へと急ぐ。彼らは国境に着くが、スイスに渡るためにはケーブルカーで深い渓谷を越えなければならない。迫るゲシュタポ。ガスはまずアンナたちをスイス側に行かせ、自分も追手たちと銃火を交えながらアンナのところに無事たどり着き、二人はひしと抱き合う。
ヒチコックの「バルカン超特急」の姉妹編?
‐‐‐これがあらすじだが、リードは、快調なテンポで物語を展開する。
冒頭の部分は2年前にアルフレッド・ヒチコックが作った「バルカン超特急」のそれと全く同じで、当初は全編パクリの映画かと一瞬慄然とするが、話が進行すると「バルカン超特急」とは異なることが分かる。「バルカン超特急」では、車中から忽然と姿が消えてしまった英国人の老婦人の謎の追及が物語の中心であったが、「ミュンヘンへの夜行列車」は、テーマはガスとボマーシュ親子のドイツ脱出劇である。それにしても、キャロル・リードはなぜ「バルカン超特急」のプロローグの部分をなぜ自分の映画に流用したのだろうか。ここだけはひっかかるし、画竜点睛を欠くところとなっている。この点については、ネット上の情報では、キャロル・リードは、職人的な映画監督であったので、映画が模倣的であることにこだわらなかったと説明されている。つまり、冒頭部分にとどまらず、全体がヒチコックの作品の姉妹編的内容であることをリードは十分承知の上で「ミュンヘンへの夜行列車」の監督を引き受けたわけである。この辺が、自分の映画の独自性、芸術性に強いこだわりを持っていたデヴィッド・リーンとの違いなのかもしれない。
三者三様の役者たち
ガスを演じるレックス・ハリスンの化けぶりが堂に入っていてまことに面白く痛快そのものである。レックス・ハリスンは「マイ・フェア・レディ」で知的で品のいい言語学者のヒギンズ教授を軽妙に演じたが、ここでは、変幻自在な曲者のエージェント(諜報員)ぶりを見せてくれる。面長の彼の顔は、ウイリアム・ホールデンを渋くしたような感じがする。映画の中では、歌も歌ったりするが、役どころは、べらべらと喋り捲る押しの強いやり手のちょっととぼけた英国男で、なかなか味がある。
アンナ役のマーガレット・ロックウッドは、キャロル・リードのお気に入りの俳優で、誇り高くめげることを知らない健気な女性を生き生きと演じている。
「カサブランカ」では、ロマンティックな革命家であったポール・ヘンリードは、この映画では、アンナに恋心を抱くものの、ナチスに忠誠心を貫く冷徹なドイツ人のエージェント役である。レックス・ハリスンの恋敵であるとともに職務上も不倶戴天の敵でもある。甘ったるい「カサブランカ」の革命家よりも、こちらのほうが性に合っているようにも見える。
この映画で、キャロル・リードはストーリー・テリングの巧者であることを証明した。話の内容は喩えていえば紙芝居的であるが、私はこの作品を貶めてそう評価するつもりはない。紙芝居は絵物語の原点であり、見る者の想像力を飛翔させてくれる。英国的なユーモアで包みつつ破たんやたるみを感じさせずに次から次へと物語を急展開させていくリードの腕前はなまなかのものではない。
キャロル・リードというと、「第三の男」をはじめとする彼の戦後の作品群を思い浮かべがちだが、彼は戦前からこの「ミュンヘンへの夜行列車」のような映画的に優れた面白い作品を作っていたのであった。